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1896年に大さん橋や北・東の防波堤などが完成。この第一期工事を経て、横浜港は安全な停泊地をもつ港として生まれ変わり、港湾都市への第一歩を踏み出しました。
日清戦争後、産業が活性化し貿易量が増大。横浜港に出入港する船も増加しました。しかし大さん橋は6隻ほどの貨物船が着岸できるだけの設計。着岸できない貨物船は沖に停泊し、荷物の積み下ろしは小さなボートで行っていました。慢性的な港湾施設の不足を打開すべく、横浜商工会議所は、停泊区域の拡大とふ頭の増設を税関に要望。1898年、横浜税関長はこれを受け、大型船が接岸できる岸壁と鉄道敷設を組み込んだ計画を作成。大蔵大臣に提案し、承認を得ました。こうして1899年、大蔵省管轄のもと、新港ふ頭を中心とする第二期築港工事が実施されることになったのです。
1914年には新港ふ頭の西側の突堤に、日本で最初の湾港荷役専用クレーンが整備されました。イギリスのコ―ワンス・シェルドン社製の大型クレーンで、最大50トンまでの鋼材や重量物を運ぶことができ、金づちに似た形状から「ハンマーヘッドクレーン」と呼ばれ親しまれました。軟弱地盤や地下水位が高い地盤に適した工法※で堅固な基礎構造をつくったため、関東大震災で損傷を受けることもありませんでした。クレーンの導入で、重量物の積載が直接可能になり、作業効率は格段に向上。1970年代に入るとコンテナ化が進み、その役割を終えましたが、建設から100年以上経った今でも、新港ふ頭のシンボルとして横浜の海を見守っています。
2018年には、貴重な歴史的遺構として土木遺産に登録されました。
※ニューマチックケーソン工法
1917年、新港ふ頭は日本初の本格的な「係船岸壁方式」の港湾施設として生まれ変わりました。
13隻もの貨客船や貨物船が同時に接岸でき、上屋14棟、煉瓦倉庫2棟、クレーン19台、発電所などが整備された当時最新鋭の埠頭として、注目を集めました。
さらに、輸出用の絹製品や生糸などを運ぶために、港には初代横浜駅(現在のJR桜木町駅)までを結ぶ鉄道も敷設。1920年からは貨物だけでなく人も運ぶようになり、たくさんの乗船客や送迎客に利用されました。
新港ふ頭は昭和30年代まで横浜港の中心的な役割を担いました。
1920年代後半から30年代にかけて、新港ふ頭や大さん橋には世界中から多くの客船が寄港しました。日本でも浅間丸、秩父丸などの優秀客船を次々と造り、太平洋航路や欧州航路、南米航路に投入。横浜港は国内外の新造船や世界一周クルーズ客船などが行き交う、華やかな時代を迎えました。
大さん橋には主に外国のクルーズ客船、シアトル航路などが、4号岸壁は主にサンフランシスコ航路、9号岸壁は欧州航路が発着しました。ひときわ注目を集めたのは、1932年に初入港したイギリスの「エンプレス・オブ・ブリテン」。当時では最大級である4万トンクラスの豪華客船を一目見ようと、連日黒山の人だかりができました。
新港ふ頭には、世界中から数々の有名人がはるばる海を渡ってやってきました。
当時の花形航路だったサンフランシスコ航路客船から、1932年にはハリウッドの大スター、ダグラス・フェアバンクスと女優のメアリー・ピッグフォードが、1934年には「野球の神様」と讃えられたベーブ・ルースたちアメリカ大リーグ選手団が来日しました。
1927年、震災復旧工事の際に4号岸壁の上屋には客船ターミナルが新設されました。鉄骨構造2階建て、延べ坪数は3,250坪。大さん橋と向かい合う堂々とした建物でした。
1階は貨物置場の他に旅具検査場や事務室が、2階の中央には旅客用待合室、その両側に特別待合室や売店、携帯品検査所などの設備が作られました。
このように、北米航路が発着した4号上屋はどこよりも設備が整っていました。横浜港で北米航路が特に重視されていたことがうかがえます。
客船ターミナルの新設とともに、4号上屋の陸側には、横浜港駅用の旅客用プラットホームも造られました。隔週のサンフランシスコ航路客船の出航に合わせて、臨港列車(ボートトレイン)が運行されました。
東京駅から横浜港駅までは、新橋、品川を経由しておよそ40分。
この臨港列車は、1941年に太平洋戦争が勃発し、航路が休止になるまで運行され、多くの船客や見送り客を運びました。
第二次世界大戦がはじまると、横浜港は軍の管理下に置かれ、新港ふ頭は陸海軍の輸送部隊が使用しました。1945年に終戦を迎えると、GHQ(連合国軍総司令部)に接収され、新港ふ頭は「センターピア」と呼ばれました。
新港ふ頭の岸壁や上屋、倉庫、鉄道など、湾港施設の90%の機能を取り上げられてしまい、貿易に必要な船の発着ができなくなりました。そのため、貿易による収入もなくなり、横浜市の財政は大きな打撃を受けました。
横浜市は長年にわたり国や軍へ強く働きかけ、横浜港の大部分が接収解除になったのは1956年のこと。それでも全面返還はかなわず、ふ頭の一部は平成まで接収が続きました。
世界景気が好況だった1950年代後半、政府の貿易振興策が実を結び、日本は高度経済成長期に突入します。横浜港の入港隻数・トン数、取扱貨物量も1955年から1965年の10年間に約4倍にまで伸びました。
これにより、新港ふ頭の岸壁などが不足し、貨物船が渋滞する「船込み」が顕在化。対応策として、急ピッチで岸壁の拡張工事と新たな埠頭の整備が進められました。
1970年代以降になると、コンテナの利用が海上貨物輸送の主流になりました。しかし、敷地が狭く水深の浅い新港ふ頭は、これに対応できませんでした。
本牧ふ頭・大黒ふ頭の造成で、港は外へと広がり、新港ふ頭は徐々に物流施設としての役割を縮小していきました。
1981年に発表された都市計画「みなとみらい21事業」。
水と緑に囲まれた「新たな都心」を造るための事業で、新港ふ頭は大きな位置を占めました。そして、1996年から約10年という歳月をかけて、緑地や商業施設、遊園地、ホテル、官公庁などが建設され、新港ふ頭は都市の機能を持つ場所として生まれ変わりました。
また、港の歴史的建造物である赤レンガ倉庫も再開発が行われ、 2002年に文化施設と商業施設が融合した「赤レンガパーク」としてリニューアル。以降も、観光・レジャー施設の誘致やショッピングモールなどが続々とオープンし、新港ふ頭を含めたみなとみらい21地区は、横浜で1、2を争う有名な観光地になっています。
そして2019年秋、新港ふ頭には「客船の港」として都市と港をつなぐという新たな魅力を加えようとしています。